エリザベス・ギルバートの内側と外側

『考える人』2007年春号では橋本治高橋源一郎が対談している。奇しくも、(文化系トークラジオLifeのパーソナリティでもお馴染み)仲俣暁生さんの「心の師」VS「仮想敵」だったので買ってみた。


考える人 2007年 05月号 [雑誌]

考える人 2007年 05月号 [雑誌]





おこがましくも意見させていただくなら、『考える人』はそれほど「エッジの効いた」雑誌ではないと思う。たぶん、先鋭的な方向を目指してつくられてはいない。では「エッジの効いてない」雑誌がダメかというとそんなことはなくて、たとえば今号の『考える人』は、気になるページを読んでいて、ふと、そのままめくった先の次のページも読んでしまうような、そういうつくりになっている。(「短篇小説を読もう」というテーマ設定も良かったのかもしれない。)一歩間違うと、『考える人』はそれこそ批判されがちな「教養」の温床ともなりかねない超豪華メンバーを揃えているわけだけど、もしかしたら、こういう雑誌が日本文壇のエスタブリッシュメントになっていけば、そのカウンターとして、エッジの効いたインディーズ雑誌(別に「雑誌」にかぎらなくていいんだけど)がボンボン生まれてくるのかも。



さて、その仲俣暁生的「心の師」VS「仮想敵」対談はといえば、なぜか借金が云々という話に流れ、いわば双方痛み分けという肩透かしな結果に終わったのだが、ほかのページにも目を惹く記事はある。たとえば、考える人編集部の「M」さん(おそらく編集長の松家仁之さん)による見開きの文章。「アメリカの作家に会う」と題されたこのエッセイは、1988年の秋、Mさんが29歳のとき、初めてアメリカの作家たちにインタビューしたエピソードからはじまる。その10年後にはあの「新潮クレスト・ブックス」シリーズが刊行され、Mさんは著者のひとりであるエリザベス・ギルバートに会った。このページに掲載された彼女の写真からは、イメージしていたとおりの、明るくて快活な印象を受ける。

「いまアメリカでは、自分の個人的な体験や自伝的なものを書くことが流行しているようですが、私の場合は自分自身の人生よりもっと面白い人生が、自分の外側にたくさんあるはずだと思っています。苦労してきた人たちの、あるいは想像もつかないような面白い経験をしてきた人たちの話をじっくりと聞いて、彼らの内面の言葉を短篇小説のかたちで切り取ってみたいと思ったのです」


このコメントは『巡礼者たち』(岩本正恵訳、現在は新潮文庫)について語ったものだけど、彼女が旅をしながら得た経験を作品という形に昇華させたそれは、鮮烈な印象の短篇集だった。たぶん、自分の外側にあるもの、つまり〈他者〉を描くということは、自分の内側にあるものをすべて取り去ってしまうということではない。実際、彼女は旅をして、そのみずからの身体を運び動かすことで『巡礼者たち』に着想したのであって、そこではきっと、自分の外側と内側とが、なんらかの形で幸福な邂逅を果たして、作品へと結びついたのだろう。



巡礼者たち (新潮文庫)

巡礼者たち (新潮文庫)




同じ号に掲載された川上弘美のインタビューに、今書いたことに通じる話があるので、最後に引用しておきたい。

「否定するわけではないんですけれど、内側はもういいかなっていう気もちょっとしたりして、でも内側のこと以外は書けなくて、外から見て掴んでというのもできないから、内側と外側とをどうやってつなげていこうかというのが、このごろ考えることです。
(中略)
内側は内側、外側は外側と、単純にわかつだけではいられないっていう感じが、これはたぶん、書いているうちにわかってきたような気がします。」