もっとも嫌いなもの


とある件で、ICレコーダーに録音したものを起こしたのだが、じぶんの声を聞くと気持ち悪くて目眩がする。絞め殺したくなる。他人に対してそのような感情を抱くことはまずないから、よほど自己嫌悪が強いのだろうけど、ほんとにもうこの声音とか、しゃべり方とか、いっさいが気に入らないのである。たぶん、ドッペルゲンガーに遭遇したら私は即死する。

いろいろ理由はあるだろうがやはり、もともとKという土地の言葉で育ったところに無理に東京の言葉を移植しているという感が否めない。語尾が強いのなんかはあきらかK弁の影響だろう。せめて15、6歳までもうすこし生まれた土地で言葉を育めればよかったのかもしれないが(ある程度納得のいく統一感が得られたのかもしれないが)、そんなことを今さら言ってもしかたがないし、ルーツをたどるということはすでに3年ほど前にやったりもしたので、もうたくさんだ。でもだからといって自己嫌悪が消えたわけではない。どうやっても根っこから切り離された上澄みのところでしゃべっているような感じがあり、だからといってもはや根っこなんかどこにもないのである。それもあってしばらく活字を読まなかったり他人の声を聞かなかったりすると耐えられなくてこれまた死にそうになる。なんという弱さだろうか。つまり、生き延びるために軽薄を身につけたのだが、その軽薄さに耐えられなくて死にそうなのである。こういう人間は生きている価値がないのではないか、とたまに考えたりもするが生産的でないのはわかっているので、できるだけ考えないようにしている。

書き言葉であれば、「私」にしても「僕」にしてもそれはフィクションだという感じがするので、とりあえずそこからなら、自己嫌悪の罠にからめとられずにどっかに抜けられるかも、という期待もかすかにはある。まだ少しは、自由な言葉の空間を想像することはできる。でもまずはそれ以上に読むということをしないと、その想像さえも枯渇しそうである。そう考えるといちばん足りないのは、やっぱり言葉なのである。

ゲームの規則


いよいよ年の瀬も迫る。中条省平の『フランス映画史の誘惑』を読んで以来気になっていた「ゲームの規則」(監督・脚本/ジャン・ルノワール)をようやく観ることができた。中条さんの本で引用されていた名台詞「この世界には恐ろしいことがひとつある。それは、すべての人間の言いぶんが正しいということだ」は、ビデオ版の字幕翻訳では次のようになっている。

「僕は逃げ出したいよ。どこか穴の中に隠れていたい」
「何のために」
「何も見ないですむ。善悪を考える必要がない。誰もが自分を正しいと思っていることが怖ろしい」
「誰もが正しいのさ」


この映画がフランスで公開されたのは1939年。上の台詞は、戦時下という状況ともちろん無縁ではない。ところが、戦意高揚のカタルシスからは程遠いこの映画は評判が悪かったらしく、興行としては失敗。ヌーヴェルバーグによって1959年に再評価され、完全版として上映されるまで、ほとんど日の目を見なかった。日本での公開は1982年。それからさらに20年以上の歳月が流れ、2008年を迎えようとする今においても、この「恐ろしさ」はおそらく消えていない。


それにしても、ジャン・ルノワールの動きはかなりかわいい。上の台詞も、ルノワールが自ら演じる狂言回しオクターヴのものである。


フランス映画史の誘惑 (集英社新書) ゲームの規則 [DVD] FRT-265

日本文学盛衰史


なんとなく日記を書き始めた。誰にも見せない秘密の日記である。さまざまな断片的な着想をそれなりにまとめていくために、日記というスタイルは悪くないような気がする。毎日つける、という形式でははなくて思い立ったときに書き散らしていくような感じで。三日坊主にはなりたくないからね。そのうち、自然とこのブログとの使い分けもできてくるのかな。


ところで、高橋源一郎の『日本文学盛衰史』を読み始めた。啄木の「ローマ字日記」のパロディも面白いのだが(本物はもっと面白いのだが)、北村透谷と島崎藤村の会話も面白い。自殺を考えた藤村が透谷の家にたどり着き、「寝ろ、寝ろ。なんも考えずに寝てろよ、いいな」と囁かれた後のシーン。

 藤村はそれから数日、透谷の家で眠り続けた。何日たったのか藤村にはわからなかった。目が覚めた時、藤村は生き返ったような気がした。藤村の布団の横で、透谷は壁にもたれ目を瞑っていた。
「北村さん」藤村はいった。「北村さん」
 藤村は透谷が耳にヘッドフォンをつけていることに気づくと、壁際まで這っていった。
「北村さん!」
 透谷は目を開けるとニコッと笑った。そしてヘッドフォンをとるとそのまま藤村の耳に当てた。力強い、だが同時にやる瀬ないヴォーカルが藤村の耳を満たした。
ジャニス・ジョプリンさ。島崎、これがほんとの詩だぜ。ジャニス、ジミ・ヘンドリックスジム・モリスン鈴木いづみ、おれの好きなやつはどいつもこいつもどうして早死にするのかねえ。島崎、お前は早死にするな。負けるんじゃねえよ」
「はい」藤村はそれだけ答えるのが精一杯であった。藤村が立ち直るのと時期を同じくして、透谷の精神状態は悪化していった。


日本文学盛衰史 (講談社文庫)

現代日本の小説


ちくまプリマー新書現代日本の小説』を読む。著者の尾崎真理子さんは文芸担当の新聞記者。この20年のあいだに現代日本小説界に起きた出来事を「駆け足」で書いた本だ。メインテーマは「手書き原稿とワープロ原稿の違い」のはずだけど、そちらの論考は思ったほどには発展しなくて、どちらかというと「村上春樹が文学に与えたインパクト」のほうに力が入っているような気がする。


1987年は、よしもとばなな吉本ばなな)が華々しくデビューし、村上春樹の『ノルウェイの森』が空前の大ヒットを飛ばした。そこから新しい20年が始まったのだ、とする説は、文学プロパーのあいだではすでにある程度共有された認識ではある(と思う)。だけれども、その時代、その瞬間の作家たちの“生の声”を取材してきた著者ならではこその臨場感があって、非常に楽しく読ませていただきました。


とりあえず、読みたい本がたくさんできたのは僥倖。(なのかな?)


現代日本の小説 (ちくまプリマー新書)