もっとも嫌いなもの


とある件で、ICレコーダーに録音したものを起こしたのだが、じぶんの声を聞くと気持ち悪くて目眩がする。絞め殺したくなる。他人に対してそのような感情を抱くことはまずないから、よほど自己嫌悪が強いのだろうけど、ほんとにもうこの声音とか、しゃべり方とか、いっさいが気に入らないのである。たぶん、ドッペルゲンガーに遭遇したら私は即死する。

いろいろ理由はあるだろうがやはり、もともとKという土地の言葉で育ったところに無理に東京の言葉を移植しているという感が否めない。語尾が強いのなんかはあきらかK弁の影響だろう。せめて15、6歳までもうすこし生まれた土地で言葉を育めればよかったのかもしれないが(ある程度納得のいく統一感が得られたのかもしれないが)、そんなことを今さら言ってもしかたがないし、ルーツをたどるということはすでに3年ほど前にやったりもしたので、もうたくさんだ。でもだからといって自己嫌悪が消えたわけではない。どうやっても根っこから切り離された上澄みのところでしゃべっているような感じがあり、だからといってもはや根っこなんかどこにもないのである。それもあってしばらく活字を読まなかったり他人の声を聞かなかったりすると耐えられなくてこれまた死にそうになる。なんという弱さだろうか。つまり、生き延びるために軽薄を身につけたのだが、その軽薄さに耐えられなくて死にそうなのである。こういう人間は生きている価値がないのではないか、とたまに考えたりもするが生産的でないのはわかっているので、できるだけ考えないようにしている。

書き言葉であれば、「私」にしても「僕」にしてもそれはフィクションだという感じがするので、とりあえずそこからなら、自己嫌悪の罠にからめとられずにどっかに抜けられるかも、という期待もかすかにはある。まだ少しは、自由な言葉の空間を想像することはできる。でもまずはそれ以上に読むということをしないと、その想像さえも枯渇しそうである。そう考えるといちばん足りないのは、やっぱり言葉なのである。