『コーマルタン界隈』

とある人に熱烈に勧めてもらった山田稔の『コーマルタン界隈』。すばらしい本だ。文体のリズムがこれほどしっくりくるとは。どうして今まで知らなかったのか。堀江敏幸の文体に与えた影響もはかりしれないのだが、「フランス現代思想」がブームとして巻き起こる以前(山田)か以後(堀江)か、という違いはあるかもしれない。ともあれ、読むときはただただ「洒脱な」文章を楽しませていただいた。


異国の地にひとり(どうやら家族を日本に残して)あって、また言語が思うようにままならず、孤独を抱えているはずの〈私〉。しかし、その孤独をことさらメランコリックに飾り立てるようなことはなく、ただ淡々と他の人々の生きる姿に溶け込んでゆく。そこにある距離感は、「メルシー」という単純な挨拶の言葉ひとつをめぐっても揺れ動くものだが、だからといって不安定な印象を与えない、独特の軽妙さが山田稔のこの本にはある。舞台となった、「夜の顔」を持つコーマルタン街も魅力的である。


各短編を読むたびに、これがこの短篇集の中のベストだ、と思いながら、結局のところその「ベスト」は最後まで更新されつづけた。元版(河出書房新社)のラストにあたる「エヴァ」の、悲しみを底流にもつ明るさ。そしてみすずライブラリー版に追加収録された「オートゥイユ、仮の栖」のF老との日々の記憶。後者は、堀江敏幸の『河岸忘日抄』に登場した、あの船の大家のことも思い起こさせた。堀江さんが意識していないはずはない。なにしろみすずライブラリー版の解説は、その堀江敏幸が書いているのだから。

『コーマルタン界隈』のきわだった特質は、複数の文化が衝突する現場に他者との緊張関係を見るのではなく、それらいっさいを帳消しにする軽い目配せの存在を探ろうとする点にあるだろう。孤独の塗り込められた日常を、肩の力を抜いて文章に乗せたところに、まぎれもない山田稔の手柄があるのだ。


この解説は同時に、堀江敏幸みずからの作家としての位置づけを宣言するものでもあるように思われる(「距離」や「散文」に対する指摘)。山田稔から堀江敏幸につらなる系譜というものが、きっと存在するのだ。いまネットで調べてみたら、ふたりは「ラジオ深夜便」で対談したことがあり、さらに堀江さんは『ブッキッシュ』の2005年9月号で「メロンと瓜〜ロジェ・グルニエ山田稔」というタイトルの文章を書いているらしい。なんと、山田稔を特集した『ブッキッシュ』のこの号の目次には“あの人”の名前もある。


コーマルタン界隈 (みすずライブラリー)

コーマルタン界隈 (みすずライブラリー)