『東京から考える』について


例によってブレインストーミング的だからほとんど推敲もしておりません。

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

『東京から考える』を読了。読んでいるあいだイライラしたのは、社会学者特有の(っていうと大変失礼だけど)自己弁護的な発言が多かったからかもしれない。2ちゃんねるなどネットで叩かれることが多いから?と勘ぐってしまうくらい、読者からの批判を想定して先回りして自己弁護的説明を繰り広げるために、議論がなかなか前へ進まず、イライラした。誤解するやつなんかほっときゃいいじゃん、と思うのだけど、それで食って勝負している以上、そう簡単に割り切れるものでもないのだろうか。
しかし東浩紀はもう少し厳密に論を展開してほしかった。北田暁大がかなり真面目に丁寧に論を積み重ねていっているからよいけれど、東氏は自分に娘ができたばかりということとの距離がとれていないような気がする。人間が動物種として生殖する、という意味で人類としてのサステイナビリティを強調したいというのはわかるけれど、それはイデオロギーではない(つまり彼の言い方でいうと脱構築不可能な)絶対的な真理なのだ、というような論の展開はいさかか性急すぎると思う。問題提起としては面白いし、東さんがだからといってバックラッシュに走っているというつもりはないけれど、やはり丁寧さに欠ける気がする。


というのは、仮に、東さんのいうように「人間工学的に正しい」という街づくりが事実として進められていった結果、バリアフリーで安全だがひらべったいのっぺらぼうのような街並みが東京を覆い尽くしたとする。そのときに、彼は、自分の娘がそういう街で暮らしていくこと、生きていかざるをえないことを、そのまま肯定できるのだろうか。「おとーちゃん、どこに遊びに行ってもなんか同じだからつまんなーい」と駄々をこねられたりとか「オヤジてめえ、おめえらの世代がこんなつまんねー街にしやがってそれでバブルだロストジェネレーションだあ? ふざけんじゃねーよ安全以外何もねーじゃねーかよ! けっ」などと毒づかれた場合、それでも彼は父親世代としての(それも言論という力を持っていた人間としての)役目を十分果たしたと胸を張って言えるのだろうか。(東さんすみません、娘さんを揶揄するつもりはないのです。)それとも、現実の街というのはもはやそういった安全性だけが確保されれば十分で、音楽や小説といった文化的な関係構築や創造行為というものはネットの世界で広がっていけばいいと考えているのだろうか。もっとも、神保町のような専門職街が新しく台頭することに期待する、というような発言もあったから、必ずしも東さんが東京のっぺらぼう肯定派ではない、ということはわかっているつもりなのだけど、もう少し、東京の魅力を追求する可能性について語ってほしかったという気はする。だってさあ、この本読んだら東京のどこにも住みたくなくなるよ……。東京には未来がないと思ってしまう。でも私は専門外で読解力がかなり貧困だし、そもそも東批判などをするつもりもないので、今後のお仕事に期待することにします。このあたりはcharlieの意見も聴いてみたいなあ。


いっぽう、北田さんの多元主義コミュニタリアニズム、つまり、東京という大きな都市自体は「安全」を志向しながらも、その中にさまざまな特性をもった街があっていい、という考え方には魅力と期待を感じた。しかしながら北田さんは、たとえば下北沢を「若者世代の街」として捉えすぎているように思う。つまり、それぞれの多元化された個々の街というのは、たしかに何かひとことで言い表されるようなイメージ(「若者の街」「演劇の街」「オタクの街」)を持つかもしれないし外部から集客をはかるためにもそのようなイメージをアピールしてもよいと思うのだが、だからといって個々の街はそのままのイメージどおりではなく、その内部にもさらに多元的で多様な世代や趣味を持った構成員がいるはずである。

たとえば下北沢でいえば、たしかに若者はわんさか見かけるし実際に来ているだろうが、街をつくっているキーマンというのはもっとかなり歳のいった50歳を過ぎたようなおっさんたちだと私は思う。そうしたキーマンたちが魅力的だから、なんとなく若者がその周辺を出入りする、という事情だってある。それが若者の来街の動機付けのすべてではないにしても。

つまりそこでは、当然ながら世代を越えた出会いが、しかも世代だけでなく、ある人物がその時点までもっていた枠組みを大きく逸脱して新たな自分の可能性を発見するような出会いが、(若者の側にもおっさんの側にも)起きているのだ。私は下北沢でそういう出会いを何度も目撃した。



そこで、私は問いたい。
「文化」や「カルチャー」というとどうにも浮ついた感じがしてしまうが、それらの情報のストックとフローは、タコツボ的にであれば、いくらでもネットで共有・伝達・再生産していけるであろう。同好の士が集まりやすいのだから、かなり濃密にそのコミュニケイションは交わされ、情報はより「濃い」ものになっていくだろう。

しかし、タコツボを崩すような、というか突然理解不可能なところから飛んでくる言葉や体験、といったものが、はたしてネットの世界でどれだけ起こりうるだろうか。それはやはりどうしても、現実の街の偶然性に賭けるしかないのではないか。もちろん、現実とネット、リアルとバーチャルは実際にはそう明瞭な線引きがもはやできるものではなく、地続きになっているとも考えられるし、ネットを介して出会っていくことだって十分あるだろうということはわかっている。だが身体的に突如出会ってしまうという体験。いきなり声を聴いてしまうという体験。同じ思想や趣味を決して共有しているわけでもなかったのだが、なんとなく同じ場所・同じ時間に居合わせてしまい、それでいてなんとなく話が交わされていく、という体験。そうした出会いは街にこそ落ちている、と私は考えている。いってみれば私はパサージュ派であって、古いタイプの人間なのかもしれない。


だが現実の街に面白くあってほしい、といっても、偶然性を喚起する街というのは、そうそう、あるものではない。たしかに本にも書いてあったように、子供のような感性があればどういう場所にだって裂け目を見出していこうとはするだろう。だがそういう裂け目はどんどんオトナたちによって塗り潰され埋められていっている。それが再開発が招くほとんど不可避な事態であり、同時に、それこそが再開発の本質ではないか。

そうした観点から、この本でも話題になっていたが、私は、下北沢に補助54号線という道路をつくることに反対である。大きな道路が潰すのは、もちろん街の景観だけでもなく、人間が何か新しいものと出会おう、新しいことを始めようとする裂け目そのものである。

編集者という立場からいっても、そのような場所がなくなることはたいへんな損失である。作家やアーティストのインスピレイションが生まれるような場所が消えていったときに、もちろん、ジャスコからもどこにでもあるような国道からも小説は生まれるだろうが、それだけではやっぱり、先細りであろう。こういう場所は残しておかなくては。それはまったく、ノスタルジーではない。未来のために残すのだ。



とにかく、『東京から考える』はいろんな示唆に満ちて面白い本だった。