ゴダール『中国女』

昨夜は床に入ってリディア・デイヴィス『ほとんど記憶のない女』。不思議な掌編集である。

朝は9時に起床。やや睡眠時間が足りないが布団を干す。オカミと一緒に朝食を食べ、パソコンに向かって仕事。すぐにバテる。近くの喫茶店に行きカレーと珈琲。ストロングにしたのに、むしろ眠くなった。

干しておいた布団を取り入れ、世田谷区の図書館を彼は自転車で転々とする。雑誌、とくに文芸誌の棚をチェックしておきたかったのだ。そして、閉館30分前から翌朝までなら新しい号でも借りられる、オーバーナイト・ローンなる制度があることを知り、さっそく利用することにした。


中国女 完全版 [DVD]

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帰宅し、ゴダールの『中国女』をビデオで観る。ゴダール独特のショット技法は相変わらずだが、それはさておき、この映画は1967年という時代と政治状況を無視してみることができないように彼には思われた。彼は、映画は政治とできるだけ切り離して、映画自体として観ることを好むタチである。しかしこの映画はそうはいかないだろう。ゴダールが商業映画と決別宣言をする直前の作品である。(『ウィークエンド』があったか)

これは、マオイズム(毛沢東主義)に傾倒してゆく若者たちを揶揄した作品である、と解釈することもできる。しかし彼は、ゴダールの映画を観るときは解釈することをやめることに、数年前から決めている。そしてできるだけ映画館で観たいと思っている。なぜならば、ビデオやDVDでは必ず眠ってしまうからだ。今日も彼は途中で眠りこんでしまった。

ゴダールの映画とは何か。それは映画というものが持ちうる力そのものであると彼は思う。だからこそやはりそれは映画館で観るのが本筋であると彼は考える。そして、ゴダールにとって、1967年という年は非常に困難だったのだろうということを思った。そこで言葉を発することの困難さ。映画を撮ることの困難さ。もちろん、イデオロギーは多数、徘徊していたはずだ。それらにそのまま乗っていくのであれば、小説も映画も必要ない。プロパガンダさえあれば十分なのである。



夜は再び仕事。またもやすぐバテる。今日は体力がつづかないらしい。帰宅したキックに魚を焼いてもらって晩御飯。そのあと、再び仕事。またもや、バテる。