赤朽葉に思うこと

早く寝ると言いながら、彼は明け方まで桜庭一樹赤朽葉家の伝説』に読みふける。山陰地方を舞台とした、母娘孫の母系3代にわたるクロニクルだが、戦後日本文化史と副題を打ってもよいくらいで、たとえばTBSの文化系トークラジオ「LIFE」で扱っているようなテーマは、すべてこの小説に登場してくるのだった。

90年代、それはいわゆる「失われた10年」と呼ばれた日々だったが、その時代にティーンエイジを過ごした彼にとって、みずからの起源を探ることは、それなりに切実な行為であった。「アイデンティティ」という横文字をあてはめて考えてみたこともあったが、どうもいまひとつしっくりとこない。それはたとえば「プライド」という言葉にも似て、その人間個人の自我の問題とあまりにも密接すぎて、そうじゃないんだよなあ、と彼は違和感を抱くのだった。

彼はつまり、世界を知りたかったのである。生まれてきた意味、ここにいる意味、ではなくて。あくまでも、意味ではなくて。存在することは自明だ。ならば、自分はこの手足や頭を使って、何をすればよいのか。少なくとも今日明日、あるいは今週末くらいまでの未来を、どう過ごしていけばよいのか。世界が虚無であるかぎり、日々はただやり過ごされるためにしかなかった。だから、彼は知りたかったのだ。この世界に存在する意味ではなく、この世界に存在してしまった者として、何ができるのか、何をするのか、ということを。そしてそのためにある、世界のことを。

赤朽葉家の伝説

赤朽葉家の伝説



失われたのは、「10年」のあいだに起きたことではない。長い年月をかけて、たしかに失われていったものがある。そして、失われてしまったあとの世界に生まれた人間にとってのかすかな希望が、今ようやく芽生えつつある。


今日は一日、掃除と仕事。洗濯と自炊。電話も何本か。体力がつづかず、昼寝。下北沢の古本屋で、ニコルソン・ベイカー『もしもし』(岸本佐知子訳・白水Uブックス)を400円で購入した。