小説の読み方

文學界」2月号掲載の高橋源一郎「ニッポンの小説」。
綿矢りさの「夢を与える」を題材にした学生たちの議論を頬杖ついて聞きながら「小説を読む」ということについて考えた文章だ。高橋は学生たちを「小説の素人」と呼ぶ。しかしながら、よく言われるような「近ごろの学生はものを知らないし、なっとらん」というような話ではまったくなくて、高橋の源ちゃんがここで言いたいのは、「小説の玄人」たる自分のほうが「小説の素人」よりも読みの解釈が優れていたり正しかったりするとはかぎらなくて、むしろ、「小説の玄人」が用いる言語体系では理解できないものを、「小説の素人」がつかみとる可能性をみている。

たとえば源ちゃんは、「夢を与える」について「フロベールの小説の流れを汲む」などと評しながら、すぐさまこうつけ加える。

ーーというようなことを言う必要などないのである。
 目を閉じ、耳を澄まして、生徒たちの話を聞いていると、彼らがそのことを十分に理解しているのがわかるからだ。
 彼らは、わかっていて、ただ、それを(ぼくたち、小説の玄人がするような形では)言葉にしないだけなのである。フロベールという言葉を使わなければ説明できないようでは、ダメなのだ。

高橋源一郎は「小説が読まれなくなったのではない。文学が読まれなくなったのだ」と主張する。この場合の「文学」というのは、「小説の玄人」たちによる閉じた言葉によって形成される、文壇という土俵のうえでのみやりとりされるものを指すのだろう。この土俵にあがるためには、教養やら何やら、うるさいものがたくさん必要になる。だがどこかで、言葉を「小説の玄人」たちで独占せず、現代に生きる人々に向かってひらいていくことをしないと、その土壌は先細りして痩せ衰えてしまう。

小説は、いつも、現代を、あるいは現在を生きようとするものだからである。

ところで源ちゃんはこんなことも書いている。

 文学には、豊かな過去があるが、現在は乏しい。逆に、小説には、現在ばかりが氾濫する。ついでにいうと、未来の成分も含まれる。
 もちろん、この言い方は、文学や小説というものの、ある特定の部位について、それを拡大して見せたものにすぎない。正確さを欠いていることは認めよう。
 だが、いま必要なのは、正確さではないのである。

高橋源一郎が「正確さ」を求めないのはよくわかる。源ちゃんは基本的に扇動家、トリックスターであり、その都度の相手や場所に応じて、言葉を使い分けて投げかける。だからといってそれは、一貫性がないということではない。むしろ、これほど一貫している人はめずらしいくらいだ。源ちゃんは、近代文学にとどめを刺したいのである。できれば、自分の手で。そのために源ちゃんは、さまざまな人に向けて、変幻自在に言葉を投げつける。