ドッペルゲンガー×大人
今夜の文化系トークラジオLifeはテーマ「大人になるということ」。(日曜深夜25:30〜28:00)
意外にこれが難しいお題で、今日は予習にと思って黒沢清の『ドッペルゲンガー』を見直してみた。(4度目くらいだが、何度観ても楽しい。)なぜかというとつまり、「ドッペルゲンガーに遭遇する」という出来事が、「大人になるということ」と関係あるかどうか、確認したかったからだ。
結論。よくわかりません。
黒沢版『ドッペルゲンガー』(2003)を最初に観たとき、これは自分の中の悪魔的な部分を覚醒させる(受け入れる)物語なのだと思った。前作『アカルイミライ』の中で藤竜也が「どうして君は現実を見ようとしないんだ!? 現実は汚いからか? だとしたら君、失礼だぞ。この現実はな、私の現実でもあるんだよ。君にないがしろにする権利なぞないんだよ、馬鹿者っ!」と叫ぶシーンがあったから、余計に「悪いもの、汚いものを受け入れる」というイメージが強烈になったのだと思う。
でも、どうかな。映画をあらためて観たら、よくわからなくなった。柄本明いい味出してるなーとか。やっぱり永作博美はキュートだなーとか。ユースケ・サンタマリアは溶接を半袖でやってたがそれはありえないだろとか。なるほどこのカメラワークは効果的だなとか。そういうことばかり考えてしまう。だって映画面白いんだもの。困ったこまった。うーむ。