小説と真実

これまた今さらながら『文藝』2006年夏号の高橋源一郎特集を読む。源ちゃんの「だいたい」とか「適当」の秘密がわかったような気がした。本人が柴田元幸との対談で語っているところであり、また佐々木敦さんが「黙秘権を行使します」という文章で指摘しているところでもあるのだが、要するに源ちゃんは、「小説は書けない」とか「真実は語れない」ということと格闘しているのである。

ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって ぼくは廃人であるそうだ

この有名な吉本隆明の詩を引用する高橋源一郎は、たぶん、真実なんぞは語れなくてもいいと思っている。というか、真実は口にした瞬間に嘘めいてしまう、そういうこわさと表現者は闘わざるをえないということを自覚した上で、そこでなお書く、語る、ということを試みようとしているらしい。それはたとえばゴダールが、映画を撮ろうとする人物についての映画をえんえん撮り続けたのにも似て、表現不可能性にチャレンジすることで、はじめて小説は成立しうる、と考えているのではないか。


いや、そうした「不可能性」うんぬんは目新しくはない。聞き飽きた、といってもいい。なのに、いまだに高橋源一郎が面白いのはなぜか。それは、「小説」が困難でそのコードが時として陳腐でさえあるということをわかったうえで、あえてそのコードにのっとって書いたり読んだりしてもまあええじゃないか、というふうになかば投げやりに、適当に、構えているそのいいかげんさであろう。だから悲壮感が消えて、いい感じに「源ちゃん」にちょこなんと収まっている。

それは、小説というものに、過剰な思い入れがないという高橋の(ほんとかどうかあやしい)力の抜けた素振りによるものかもしれない。

言語を使った、何か新しい芸術形式が生まれ、それが新しいジャンルとして成立し、みんないいということになって、小説がお役御免になっても、それはそれでいいんじゃないかというふうに思うんです。

高橋源一郎は言いながら、しかし小説にとってかわる新しい「ジャンルX」の存在は想像できないとつけ加える。

なぜなら「小説」というものの最大の特徴は「人間」が、そこに登場することで、そして「小説」以上に「人間」というものを説明できる手段を我々は持っていないからです。(……)
我々の中に「本当のものはどこにあるか」とか「生きているとは何か」という問いがある限りは小説はある。それに答えられる能力をもった芸術形式こそ小説なのだ、と僕は考えます。そういう問いがもしなくなったらなくなったで、それはけっこうです。(……)
そういう条件がなくなった時、誰も「本当のものはどこにあるか」という問いを発さなくなったなら、小説は亡びるだろうし、それよりも小説は潔く去るべきだろうと思います。


涼しい顔をしながら、なにげに源ちゃんは熱く語っているのである。だがはたして、今を生きる私たちは「本当のもの」を求めているだろうか。少し前までは、私たちはたとえば「生きる意味」であるとか「居場所」であるとかを求めて、さまよっていた。だが今や、そうした問いを発したり、場所を探したりすることはほとんどもはや時代錯誤化した恥ずかしいものとなりつつあるのではないか。揶揄の対象にしかならないのではないか。それならそれでもいいのかもしれない。では私たちはどうやって今この瞬間を生きているのだろう。それは、私たちが考えることをやめてしまったのか。それとも、今ある生を受け入れるというところに到達したのか。

だからといって、私たちの生がより豊かに、生きやすくなったのかといえばぜんぜんそんなことはなくて、ほうぼうで私たちはそれぞれの苦しみを抱えて孤独にはある。しかし、今さら「苦しみ」であるとか「孤独」であるとかいうことは、口にするのもはばかられるほど、やはり、恥ずかしい言葉になりつつある。そうした言葉が死んだ先に何が生まれてくるのだろう。

僕が小説を信頼するのは、小説というものが、変貌し、嘘をつき、カメレオン的に変身しても生き延びていくいいかげんさを持っているからです。

おいおい、自分はともかく小説まで「いいかげん」にするなよ、と思いつつ、しかし、小説が生き延びていくとしたらその「いいかげんさ」にこそ活路があるのかもという考えには妙に説得力がある。源ちゃんにうまいこと騙されているのかもしれない。とにかく、人間は面白いものを発明したなあと思う。小説という媒体。年がら年中エイプリルフール。嘘つきなのだ、小説は。よい書き手を探すことは、最良の嘘つきを発見することでもある。