不良

今週のTBS文化系トークラジオLifeのテーマは「不良」。
http://www.tbsradio.jp/life/


初めこのテーマにピンとこなかったけど、考えてみれば、先週の放送(テーマ「失われた10年」)で「クイックジャパン」編集長の森山さんが00年代アーティストを「マジメ」と称したことに、対照的に対応しているのかも。

赤朽葉家の伝説

赤朽葉家の伝説

グッドタイミング、今読んでる桜庭一樹赤朽葉家の伝説』第二部の主人公がレディース。
当然、「不良」にまつわる記述があるので、ここに抜粋しておきます。130ページ。


 毛毬が中学生だったこの八〇年前後という時代は、フィクションに浄化された“強い男”が紅緑村の若者たちを席巻したころであった。かつて、その親たちの世代が必死になって目指した、男らしい男、富らしい富はつぎにやってきたこの時の若者によって、目指すべきポーズ、フィクションに変えられて奇妙な形で文化の中に生き残った。中学にも高校にも、必ず「もっとも強い者」とみんなで決めた、総番と呼ばれる男子学生が一人はいた。その少年たちは本当に無敵だったわけではなく、仲間たちが互いに、無意識に、そういう物語をつくりあげていったのだ。共犯意識。身近な物語を生き抜く、乾いた少年たち。
 実際にそういた風潮が始まったのは、この国の総番ともいえる首相、田中角栄ロッキード事件で失脚しはじめたあたりからのことだった。ニュースでも新聞でも、巨の男が大木が切り落とされるように倒れていくのを毎日のように実況中継していた。村の大人たちはあれこれ思うことがあっただろうが、子供たちはというと、自分たちだけの巨の物語作りに熱中し始めた。
 子供たちは互いの血を見て、涙を見て、友情らしききらきらしたものと一瞬、すれ違った。学校で総番を見上げ、家に帰れば漫画で、野球やボクシングを描いたスポ根や、不良たちの抗争の物語を読み続けた。

そして138ページ。

 毛毬たちに思想はなく、その意識の中には社会もまた、なかった。毛毬たちは興味を持てない実際の社会を可視できず、代わりに、自分たちのフィクションの世界をつくって、実際の世界を上から塗りつぶした。不良文化は、若者たちの共同の幻想であった。そこには漠然とした天下統一や喧嘩上等の思想があったが、なんのために戦うのか、走るのか、中心部分は空洞であった。そしてだからこそ、若者は燃えたのだ。なにもなかったからこその熱狂であった。
 そういったことはしかし、大人たちにとっては大いなる謎であった。


毛毬はやがて中国地方を統一する。親友を失う。
そして総番を譲り、引退する。彼女は大人になる。

「不良」というものが、大人になるための通過儀礼として機能した時代があった。
そういうことなのか……。