無花果の顔


DVDで桃井かおり監督の『無花果の顔』を観た。のっけから、自然なような、不自然なような、父と母と娘と息子の会話が独特のカメラアングルで交わされて、面白いなあ、と思っていたらそんなものは序の口で驚いた。桃井的リアリズム、とでも呼ぶしかないような世界観。明るいような暗いような、閉じているようで開いているような色彩感覚が終始目を楽しませてくれる。



印象的なシーンがいくつかある。山田花子が好演している娘(ユウ)が、「自宅執筆中」状態だった出版社の仕事を辞めて、東京タワーの見える部屋を借り、そこでパジャマ姿でてきぱきと文章を書いている。どうやら彼女はフリーライターとして独立したらしい。その窓はいつも開いていて、東京タワーの下の路上には、母の姿や、彼女自身の姿、それから新しい父が母をおんぶして歩く姿などが映される。

最近、星野智幸保坂和志を読んでいて、たしかに彼らは仲俣さんがいうように「路上」や「森」を描いているのだが、そこにはもうひとつ、「家」という大事なものも描かれているのだと思った。「家」といったときに、あるべき家族の団欒であるとか、帰るべき場所、というような想像はもちろん喚起されやすいだろうから、保守的な香りがしないといえば嘘になるけれど、必ずしもそうとばかりは言い切れなくて、実は、ある人間が、さまざまな理由によって人生の分岐路に立ち、そこから新しい生活をはじめよう、と考えるならば、まずはやっぱり、どこかの家に居を定める、ということが大事になってくる。それは全然、終の棲家でなくてかりそめの家でじゅうぶんなのだけど、どこに住んでもどうだっていいかといえば全然そんなことはやっぱりなくて、自分のそのときの感覚と、その家のある場所や家そのものが持っている雰囲気、といったものが、けっこう大切なんじゃないかと思っている。


家というのは、ひきこもれる場所でもあるけれど、意外に他人との行き来がある場所で、路上ほどではないにしても、そこでも私たちは誰かと出会ったり何かを交わしたり求めあったりするんじゃないだろうか。その時、家にはさまざまな家具やら小物やらがあって、そうしたモノたちに囲まれることによってできた空間の中にいる以上、誰かとのやりとりのあいだにもそうしたモノが入り込んでくる。というか、そうしたモノを介して、誰かとゆるやかにつながっている。


無花果の顔』では、もともと家族が住んでいた家、それから新しく住み始める家にも庭があって、そこには無花果の木が植わっている。それは、最初の家では実がならなかった。父は、「夜のあいだに全部食べちゃったよ」というようなことを娘に言って「早起きしないから」と笑い飛ばすのだが、もちろんそれは嘘で、無花果の実なんてならないのである。しかし、ほんとか嘘か、新しい家に移されたその木は実を宿すようになった、という話が、新しい父の口からその娘に聞かされる。その娘と新しい父はもちろん血がつながっていないし、実は、最初の父と娘のあいだにも、血縁関係はないのだった。そして、新しい命をこの世に産み落とした彼女は、無花果の木の植わった家を訪れる。


無花果の木というのは、たぶん、嘘の上に植わっていて、でも、圧倒的なリアリティで、娘の人生のそばに生えている。