星野智幸の〈森〉


ひきつづき星野智幸を読む。仲俣暁生『極西文学論』の第三章「路上と森」に、星野智幸の『ファンタジスタ』が登場するのだ。ケルアックの〈路上〉は『オン・ザ・ロード』として新訳された。いっぽう、文学作品における〈森〉といえばやはり大江健三郎のイメージが強いけれども、星野智幸の森は、還るべき場所=原体験としての森が焼き払われた後の、傷つき壊れた者たちが身を寄せる場所として、ミステリアスに描かれる。

たとえば『目覚めよと人魚は歌う』では、それは赤土の台地にある家。これは森そのものではないが、ススキに囲まれ、ほかの家々から切り離された場所に独立してあるという点では、森とほとんど同じ機能を持つように感じられる。また、『ロンリー・ハーツ・キラー』において登場人物の“いろは”が逃げ込む山荘は、まさしく森に囲まれている。彼女は山荘を訪れる様々な人々とは深い付き合いをせず、報道やゴシップの言葉から身を隠すいっぽう、森をひとりで散策し、大切だった人たちの言葉を、泉のほとりで反芻するのだ。

「思いきり私的な日記映像を撮るんだ。プライベートすぎて、「私」を突き抜けてしまって、自分も消えてしまうような日記映像をさ。そこまで行けたら、初めて映像が表現へと生まれ変わる」


 いまなら、その言葉の意味がわかるような気がします。私は森に生えるちょっと変わった木の一本になりながら、カメラを回している。街で、カメラと一体になって自分が消えていく匿名の感覚とは、少し違います。私が森という場所に溶けていきながら、消えてなくなるのではなく、森を成り立たせている一要素に変わるのです。森のほうも、カメラを回す私を受容することで、かすかに変化していく。さらに、木々に覆われた新しい泉に水が徐々に溜まって黒鏡のような水面を広げていく様子、水流が完成し泉からあふれた水が光の粒をまとってそこを流れていく姿、放流された魚たちが素速い影となって水中を駆けめぐるさま。木々の一本になりたくなったように、私は泉の一部に溶けてしまいたい誘惑にも駆られました。
 私はいつも何かになりたかったのかもしれません。私はこの肌に投影を持っている小麦色のスクリーンだった。


星野智幸の小説の多くにおいて、日常的に交わされる会話や、ニュースなどの報道によって流れる言葉は、真実を捉えることなく上滑りする。そのような言葉によって規定される「私」は、からっぽでしかありえない。


けれども森では、異種の言葉が流れている。




少し自分の話をすると、今から3年ほど前、ただただ身を隠したい、できることならば消え去りたいとさえ思っていた私は、森の中に隠れようと考えた。森は、もちろんメタファーであって、私は下北沢という街を森と見なし、そこにコミットすることで、引きこもろうと考えたのだった。けれども、ある人に「街は森ではない」と言われ、「森を出ろ」とけしかけられたことで、結果的に私は(たぶん)森を出た。あれから3年経った今、私は逃げ場所ではなく、さまざまな言葉を、ゆっくり染みこませていく場所が欲しい。そうした時、森はふたたび魅力的な存在として映る。


ここまで書いたところで同居人が部屋にやってきたので、お酒タイムに移行します。今日は熱燗かな、やっぱり。


ロンリー・ハーツ・キラー (中公文庫)

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