ロマン主義的批評(仮)宣言5


前回で終わらせようと思ったのに終わらなかった。ここで書いていることは何も目新しいことはない。すべて、誰か先行する者の言葉であり、ただそれを「ロマン主義的批評(仮)」という旗の下に寄せ集めているにすぎない。きわめて二十世紀的な古臭いことだと思う。でも私にとっては必要なことだった、ような気がする。次回からはもう少し実践的な方向へシフトしていきたい。

ロマン主義について

ロマン主義、という言葉についていうと、ほんとは「浪漫派」でも「ロマンチック」でもよかったのだが、それはそれでなんだか色が付いてしまうので、結果的に今ではあまり耳慣れない言葉であるところの「ロマン主義」を選んだ。友人が「ロマン=小説主義?」と訊いてきたがそういうわけではない*1。また、ある特定の時代における芸術運動に対して特にリスペクトしているわけではなく、単に古典主義、教養主義に対する対義語として使っただけのことである。


もちろんすでに教養主義の土壌は瓦解している。だから単に教養主義へのカウンターということではないのだが、歴史的に見て、古典・教養に流れる向き(教養主義)と、そこから外れた自由奔放な創作活動(ロマン主義)に流れる向きとは繰り返し盛衰してきたはずだ。しかし、繰り返すが現在教養主義は崩壊していて、それに取って代わったのはロマン主義ではなかった。


今では、グーグルやウィキペディアがつくりあげる膨大なデータベースが幅をきかせている。検索エンジンの巡回マシーンがデータベースの海をうろついているのである。我々はその情報を使いこなしているのか、それとも情報に走らされているのか分からないが、とにもかくにもその検索エンジンから恩恵を受けている。今や、我々に必要不可欠なのは、教養の体系にコミットさせてくれる師匠ではなく、グーグル先生なのだ。たしかにここ数年でデータベースは充実し、日本語版ウィキペディアなども飛躍的に成長した。かなり実用的な存在となった。しかし、生きていくうえで、やはりそれだけでは足りない部分があるだろう。


何が足りないかというと、ロマンが足りないのである。


というとまるで伊坂幸太郎のようだが(そして伊坂さんの小説が私はとても好きだが)、単にデータベース化された情報の集積ではなく、それら個々の情報のピースとピースをつなぐための想像力、それを私は「ロマン」と呼びたいのだ。


最近では「あいまい検索」であるとか、アマゾンの「この人はこんな本も買っています」サービスなどによって、データベース検索も1対1対応ではなく、近似値まではフォローするようになった。しかしながら、私がロマンと呼びたい人間の想像力はそのような近似値をはるかに超え、時には理解不可能なまでの飛躍を見せる。逆に言えば、もしもそれがなかったら、我々はほとんどデータベースにテキストや画像や動画を奉仕しつづける犬であるといってもいい。我々が民主主義だと信じて推進してきたものの結果生まれたものは、ハーバーマスが考えたような徹底的に討議できる公共の空間ではなく、ハンナ・アレントが夢想したような卓越した個人が技を見せるアリーナでもなかった。単に、データベースに接続し、そこから引き出される情報とそれこそ無限に戯れながら、それぞれがそれぞれの居場所でキャラを演じつづけるような、誰も決してほんとのことは言いませんよ的空間でしかなかった、ということになる。(そして誰にとっても、もはやほんとのことなんて分からなくなるし真実なんか追究する必要はないのだ。*2


いや、もちろん、世の中はそこまでひどくなっていないだろう。それどころか全然ハッピーだという人もいるだろう。しかしながらこの「常時接続」という状況にいたって、ついに救いがたい孤立を感じているという人も、少なからずいるはずである。頭の中に刹那的に浮かんでしまうキャラの声を喋るしかないという無力感。これはほんとうの私の声ではないのではないかと思いながら、真実だと思っていたはずの言葉をぐっと飲み込み、ひたすら空気を読んでいるうちに何が真実だか分からなくなってもう何もかもどうでもよくなってしまったという虚脱感。そういうものがいっさいないという人にとっては今はほんとに幸福な時代なのかもしれないが、少なからずそうした無力感や虚脱感を抱いているという人にとっては、なかなかつらい、失語の時代である。


その失語された状況を超えて、分断されたそれぞれのピースは、どのようにして結びつきうるのか? 批評、とか、ほんとはどうでもいい。私としては、とにかく、今まさにこの瞬間に死んでいっている言葉、形を与えられずにそのまま死産していく言葉たちのうちのいくらかに対して、触れたい、それをこの手に掬い取りたい、という気持ちがある。さらにいえば、死んでいくのは言葉だけではないのだ。しかしながら私には何もできない。何もしてやれない。だからせめて言葉だけはどうにかしたいという、ただ、それだけなのである。(つづく)






 

*1:ただ、東浩紀桜坂洋の小説は批評と呼んでいいかもしれず、そう考えるとフォーマットとしては小説であっても批評であってもどっちでもいいや、という気持ちはある。

*2:そこは米澤穂信が“ああいう”ミステリーを書かざるをえないということにもつながっているだろう。というのはつまり、米澤穂信のミステリーにおいては(といってもいろいろあるのでたとえば『インシテミル』を例にとれば)、必要なのは真実を暴く名探偵ではなく、事実を利用しながら問題をより安全なところにソフトランディングさせるマネージメント能力に長けたコンサルタントである。「市民の後に来るのは会社員だと思っていた」という笠井潔との対談で発したコメントはおそらくこのような意味ではないか。「空気を読めない」探偵はもはや必要ないのである。