ロマン主義的批評(仮)宣言2

批評と現代思想

前回、エントリーの最後で「不自由」と表現したのは、批評といえばこう、というある種のフォーマットが出来上がっていて、そこから逸脱することが難しいように思えたからである。どうも文芸誌に掲載される批評のほとんどはちゃんと読む気になれないのだが、それでも気になる若い批評家が何人かいて、問題関心が重なるところもあるから読んでみたりもするけど、どうも読みづらくてかなわないから、やっぱりいいや、となってしまう。もちろん、こちらの読解力の至らなさのせいだと言われればそれまでだし、彼らにしたって媒体(文芸誌)に合わせてそういう書き方をしている面だってあるだろうけど、なんでもかんでも「」に入れてそれに含意を持たせて、というようなやり口はやっぱりかつて批評と呼ばれたものの真似事のように見えてしまう。もっとのびのび書けばいいのに。


批評というのはそもそもパフォーマティヴであってこそ読まれるものだ、と私は思う。古くさい本だが、蓮實重彦の『表層批評宣言』でいうところの、「制度」を反復することでそこに「裂け目」を見出すというやり方に倣うなら、やはり批評家たるもの、先行する文体を利用しながらもそれをどこかでズラすような仕掛けというか、その「裂け目」を虎視眈々と狙っているようなしたたかさや鋭さ、悪意やエロス、そういったものがないと、読むものを魅惑することはできないのでは?*1


やはりなんだかんだ言っても、蓮實重彦は影響力の強いスターだったのだ。柄谷行人浅田彰と並んで、彼らが批評や現代思想を盛り上げることに貢献したのはたしかである。そして批評の興隆は現代思想のブームと切り離せないものだった(と思う、たぶん)。その意味でいえば、現代思想のブームが去ってその用語が多くの大学生たち(およびその先に彼らがなるであろう社会人たち)にとって馴染みのないものになってしまったら、批評は語りうる言葉を失うことになる。そして実際、失っているようにも見える。*2


批評が現代思想と結びついていたというのはたぶんけっこう重要で、それだけ、批評がアカデミズムに接近していたということでもある。ただ幸か不幸か、現代思想が衰退したことで、そうしたアカデミックな色合いを脱色した書評やレビューが今やかなり台頭した。さらに書店では可愛いポップなんかも登場し、どう考えたってもはや、小難しい感じの批評家が書いたものよりも愛らしい文化系女子の書いたポップのほうが読者のハートを鷲づかみにすることは目に見えている。批評は明らかに劣勢であり、全面的に退却を迫られているのだ。仲俣さんの4分類でいえば、「親和」や「消費」の読み方が主流になっているといえるだろう。*3


ただ、それでも批評を“書こう”と思う人がいるのは事実なのである。今や『構造と力』を手にして歩いていたらそれだけでモテる、みたいな牧歌的な時代は完全に終わり、むしろそんなことをしたら狂人かよくて非モテの変人扱いである。敢えてイバラの道を進むようなものだ。でもやっぱり、「親和」や「消費」の読みばかりでは創作者へのフィードバックも乏しいし、語彙も痩せ細っていく傾向にあるから、誰かがやっぱり「批評」をやらなくちゃいけないんじゃないかという気がする。これはけっこう切迫した思いとしてある。こんな今だからこそ、魅力的な批評が必要なのだ。



批評は小難しいものなのか?

でもその時に、今、批評を書こうという人の意識はどうなっているのだろう? そこにはやっぱり、かつて現代思想の頃、親しく付き合っていたアカデミズム(昔の彼女)への想いが、まだ捨てきれずに未練がましく残っているのではないか。


難しい用語や「」に入れた含意とかで何かを語ろうとするスタイルは、やはりもう、耐用年数の過ぎたやり口であるように思う。もちろん、そうした言語でしか考えられないものだってあるはずだけれども、そこは潔くアカデミズムプロパーに譲ってしまってよいのではないか。アカデミズムの世界だって、今は大学院も増えてなんだかわけがわからなくなっているのでこれも混乱の元だが、もともとは非常に厳しいシステムが構築されていて、たとえばそこでは新しい言葉ひとつ生み出すことさえもほとんどタブーだったのである。文学研究も(今はどうだか知らないが)かつては生きている作家は修士論文や博士論文の対象にしてはいけなかったはずだ。それくらい厳しい世界でこそ連綿と培われていくものがあるはずだと私は信じるし、私自身はとてもそんな研究をする根気はないけれども、時には誰かが研究したその成果物を読みたいと思う。けれども、そういう厳密なアカデミズムに生きる覚悟なんか全然できてないのに、なにかもう、とにかく小難しいことを言えば頭がいいと思っているような自意識の塊みたいなアカデミズムくずれのブログ論壇的な言論をいくらやっても、そんなものは全然これっぽっちも批評ではない。そんなものを書いても、本物のアカデミックプロパーからは馬鹿にされ、一般読者からは敬遠されるだけである。そんなことでは世界は1ミリたりとも動かないのだ。


いくつか前のエントリーで東浩紀桜坂洋の「キャラクターズ」を褒めちぎったのは、あれは小説だと言い張ってはいるが、実はこれこそ批評じゃないか、という気がしたからでもある。もし、それがかつて批評が担っていた役割を果たすのだとしたら、「批評=小説」であってもいいんじゃないか。*4というわけで、まずは「小難しい用語をこねくりまわした文章=批評」という先入観をここで完全に放棄しようではないか。研究と批評は異なる。もちろん両方やる人がいてもいいが、批評はあくまでもパフォーマティヴなものである。かつて両者が蜜月だった幸福な時代のことは、きれいさっぱり忘れよう。(つづく)



 

*1:そう思ってさきほど本棚から蓮實重彦の『表層批評宣言』を引っ張り出して冒頭を再読してみたが、はっきり言って何を書いているのだかさっぱり分からず(苦笑)、まわりくどい言辞を延々弄んでいるとしか思えなかった。とはいえ、かつてこの蓮實毒にしっかり痺れさせられたのはたしかだし、今だって気分によっては陶酔できる可能性もなきにしもあらずである。酔っぱらって読むと目が回って楽しいかもしれない。

*2:私見ながらわずかに現在生き残っていてかっこいいと思う批評家は、そうした現代思想の言語とはほとんど無縁なところでの“センス=批評家的振る舞い”で勝負しているような気がする。そのせいか、これはまったく厳密な分析ではないが、現在批評家と呼ばれて認められている人の多くは、小説の批評というよりは、音楽や映画といったより感覚的なメディアが主戦場のように思われる。

*3:もっとも、もともと批評を読んでいた人間がそんなにめちゃくちゃ多かったとはとても思えないから、批評的な読みが激減したというよりは別種の読み方が台頭してきたと考えたほうがよいのかもしれない。しかし実際のところ、日常生活における我々の時間はかぎられていて、何を読むかというのはそれなりに問題である。その時に、どちらかというと安きに流れるというか、たとえば面白い小説を探しているならば、長ったらしくてあれこれ考えなければならない批評よりも、より直接的に面白さを伝えてくれる書評やレビューのほうが手っ取り早いし、書影などもあってビジュアル的にもそそるということがあるとは思う。ポップは可愛いしな。

*4:場合によったら、「批評=日記」であってもいいと思う。それは十分にありうる、というかそういう日記を書く人を私は何人か知っている。