ロマン主義的批評(仮)宣言3


さて前回、批評とはこういうものだという先入観を打ち捨てたことで、では批評とは何かと、そういうことをようやく考えられる地点に立った。批評とは、一般には書かれたものを指すわけだが、仲俣暁生さんの提起によって、「批評」はひとつの読み方(批評的な読み)として示された。そこでまず、読むことと書くこと、インプットとアウトプットの関係について確認することで、批評というものが持つ特性について考えておきたい。(それこそ現代思想っぽいですが)

林檎は赤いのか?

何かを見たり聞いたりした時に、人はさまざまなイメージを想起するのだが、それを言葉にする時に、いちいち、イメージを頭の中で言語に翻訳する、ということを意識的にやっている人はほとんどいない。日常的にひとつの言語を用いて生活している場合、それが日本語ならば、その言葉はイメージとほぼ同時に立ち現れる。たとえば赤い林檎を見たときに、「あ、あの色あいは、赤と呼ぶのがふさわしい」などとは誰も考えない。見た瞬間に潜在的に赤という言葉があり、それが無意識のうちに口から出てくることになる。


それはしかし日本人の言語体系の中に「赤」という色ができあがっているからである。しかし、たとえば「紅(くれない)」とか「紅(べに)」とか「朱(しゅ・あけ)」といった言葉を日常的に用いる人だったらどうだろうか。あるいは、イラストレーターなんかをしていて、色番号の違いや印刷物の微妙な仕上がりの差異についてきめ細かく見ることを仕事にしている人ならばどうだろうか。あるいはまったく異なる言語体系の文化で育った人ならばどうか、そもそもそのような色を見たことのない人ならばどうか……と考えていくと、実は「赤=林檎」と即座に認識するのはきわめて特殊なある文化圏内での共通理解に過ぎないということになる。あれは実際には赤と白の縞々模様だよね、と指摘することだってできる。あるいはそこで「リンゴ」「りんご」「林檎」と想起することも可能であれば「アップル」とか「apple」とかその他の言語によってそれを認識することもできる。しかし当然、そんなことはいちいち日常生活の中では指摘されないし、される必要もない。


同様に、我々が何か本を読んだり映画を観たり音楽を聴いたりした時に、どう感じるか、ということも、「感じるイメージが先行していて、それを言葉にする」ということではないはずだ。イメージと言葉とは分かちがたく結びついていて、そして出口となるはずの言葉は、我々が生きている文化圏内の言語体系や常識や作法によって既に大部分決定されてしまっているのである。


他者に語りかける言葉としての批評

もし、我々が、ただとにかく日常生活を何事もなくつつがなく送りたいのだ、と念じているのだとすれば、たぶん批評は必要ない。「林檎は赤だ」という共通了解があれば事足りるのだし、そもそも、そんなことさえも認識していなくてもいいかもしれない。赤い林檎でも青林檎でもどっちでもいいやと思う人だっているだろうし、梨でもへちまでも特に問題はない、という人だっているだろう。


しかしもし、我々がそれでは退屈してしまうとしたら、あるいはもっとさまざまなものを知りたい、見たい、聞きたい、描きたい、記述したい、語りたい、そして“語り合いたい”とった欲望が頭をもたげてきた時には、どうだろうか。果たして「林檎は赤だ」という世界だけで足りるだろうか。誰か、話したい人(たとえば口説きたい女の子)を前にしたときに、「この林檎は赤ですね」と言うだけではやはり寂しいし、そもそも日常言語においてはそんなことさえも認識していないのだから、「この林檎は赤ですね」という指摘さえもできなくなるのではないか。「林檎は赤いですよ」と指摘できればそれだけでも大いなる前進である。「くすっ、そんなの当たり前じゃありませんか」くらいの反応は相手から引き出せるかもしれないからである。でも大抵の場合、林檎を前にして、我々は途方に暮れ、口を閉ざすばかりだ。


もちろんこれは極論である。けれども実際のところ、今、我々の身に起こっているのはそういうことではないか? 話されることはといえば、「近所に新しいスーパーができたよね」とか、「あそこは火曜日にキャベツが安いのですよ」といった“事実あるいは噂の記述”ばかりである。すべてはその延長であるといっても過言ではない。たとえばせっかく本を読んでも、そこからもはや何かを考えたりすることはできない。「あの本、泣けるよ」か、せいぜい、ちょっとばかり粗筋を説明できるくらいのことだろう。そしてそこで
「ふーん、読んでないな」
「そのうち読んでみるよ」
「読んだよ(^^)面白かったね☆」
くらいのことしか我々は言えなくなっているのではないか。それでもいい、ということならいいが(そしてそういう会話自体を全否定するものではないが)、それだけでは、少なくとも私は物足りない。


一般に「批評が必要か」というだけの話でいえば、それは時代のあだ花として片付けることもできる。けれども、他者に向けて語りかける言葉というものを、我々はつねに必要としているのだ。その時に、批評の言葉という選択肢がなくなってしまうのは、これはすごく、手痛いことではないか。我々は隣人を欲している。そしてまた、彼や彼女に向けて語りかける言葉も必要としているのである。(つづく)