動かされる/動く/動かない/動けない


某イベントに顔を出す予定だったのだが、行ったら行ったでいろんな人に会えるな、と思いつつ、それが現在の引きこもり状態には少々つらくもあり、結局断念して自宅周辺で過ごすことに。すると独特の文体で知られる某批評家が夫人と一緒に歩いているのを見かけた。見たところ、ごくふつうの老夫婦である。あの鋭い舌鋒と、この生活感とが、どこでどういうふうにつながっているのか? 不思議な気分になった。


最近は揺り戻しもあるかもしれないが、ぼくらの世代の多くはたぶん「お金」というものにそれほど高い価値を見出してはいなくて、そりゃあったら嬉しい、それくらいのもので、では何を思って仕事しているかというと、安定した生活リズムとか、社会的な地位とか、あるいはそれがいくらかは将来の糧になるだろうとか、そういうことを考えてやっているのではないかと思う。(ないとほんとに困るけど。)でもやっぱり野心というものはあり、知識を身につけ、技術を磨き、人脈を拡げたり深めたりしていくことで、何事かを成したい、成せるであろう、という期待はいくらかある。少なくともぼくの仕事にはある。だから、とりあえず人生とかそんなことは考えなくていいから、目の前のことをひとつひとつやっていくのだと思って仕事をしてきた。


でもそういうのが座礁したりとか、かつて仲俣さんが使っていた言葉でいうと「難破」しかけたりしたときに、たとえば20歳代の前半であれば「現在への不安」として現れたであろうその問いかけが、それとは少しちがって、むしろ「未来にいたるまでの時間軸上における疑問」のような形で立ち現れてくる。それは単に「将来への不安」ということもないわけではないけども、それよりもなんというか、様々な生き方がある中で、どういう制約や宿命的な要素があるにしてもとりあえずは今の生き方を自分は選択しているのであり、ただそれが、それ自体「様々な生き方」のひとつに呑み込まれていくときに、はたして今現在の自分とまわりの人たちの人生とのこの折り合い方は、なんだろうかと……いや、もう少しシンプルに書ける気がするぞ……。


なんというかこれは、たぶん、時間とか記憶とかに関係することである。時間とともに、いろんな人の記憶が降り積もっていく、もちろんその課程では「忘れる」ことも多いのだけど、それらの記憶を通じて、ぼくたちはお互いを「覚えている」はずである。その記憶が、突然すっぽりと抜け落ちたり、あるいは急に復活したりするときに、いま現在の自分が宙づりになってしまうような、そういう感覚。


そのあたりがどうも最近ちょっとわからなくなっているらしい。いや、今までだってわからなかったんだけど、とりあえず動こう、ということがまずあったからそれでよかった。


たしかに動いていくことで得られる予想外のダイナミズムは魅力的である。でも人が(ある程度比喩的に、ある程度は物理的に)動けなくなったときに、そのある意味最底辺のどん底状態で、どういうことを考えるのか、どういうふうに考えていけばいいのかということに、今は少し興味が向いている。