『めぐらし屋』

ひとつ前のエントリーで気づいたのは、「記憶」ってやつは一歩間違えると霊感とかスピリチュアルとかって胡散臭い感じになってしまうということ。なんかそういうのって潔くないというか、もっとさばさば片付けたいというか。


そういえば堀江敏幸の新刊『めぐらし屋』は、蕗子さんという人が父親の遺品整理に向かい、そこで「めぐらし屋」という謎めいた父の横顔を知ることになり、その真実を新聞記事や証言を手がかりに解き明かしていこうとするものだが……じゃなくて、「解き明かす」というのは違った。なにしろ「わからないものは、わからないままにしておくのがいちばんいい」という小説である。

なぜ、という無理な問いかけはしないから、なにがあったかだけ、わかりやすい言葉で答えてほしい。

スピリチュアル、とかってのは、生きることにも死ぬことにも「なぜ?」という理由を欲しがった人たちが、できるだけ無害で、かつできるだけ汎用性の高い形でその答えを見出せるように編み出した、ひとつの知恵(嘘)なのかもしれない。でもそういう嘘に与するのが耐えられない人たちは、別のやり方で「なぜ?」を受け止めるしかない。


そのときに、真正面から攻めると、この「なぜ?」はなかなか手ごわい。手ひどく傷つくことだってあるだろう。そういう意味では、堀江敏幸の文章は、そのような傷つき方を巧みに回避する。ある中心を避けて通るかのようにぐるぐると周縁を回るようなその手つきは、『めぐらし屋』においては、人から人へと「コトバ」や「モノ」をバトンさせる方法として現れた。伏線として配置された「コトバ」や「モノ」もあれば、ただ単に話の端にのぼったような、なんの意味も持たないディテイルもある。主人公はいたって平凡だし、これまでの作品に比べれば小粒な印象はあるけれど、人生のあれやこれやをひとつひとつ丁寧に受け入れていくようなこの小説世界は、これはこれで、好きだなと思った。


めぐらし屋

めぐらし屋