駒場へ

駒場東大キャンパス内にジャズライブ&トークイベント「JAZZ TODAY in Komaba 2007 "TRAPPING NYC/TYO"」を聴きに行く。駒場寮の跡地はいまやすっかりモダンな建築物にとってかわられている。確実に記憶の断絶はあるのだが、それがいいことなのか悪いことなのかというと、まだ判断がつかない。
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■chummy lotus-eater (渡邊光芳+栗原務)
■itoken + jimanica (a.k.a. d.v.d)
キップ・ハンラハン佐々木敦野々村文宏(鼎談)
■combopiano (渡邊琢磨+渡邊光芳+栗原務 guest: 内田也哉子


鼎談は音楽が生み出される場所や時間をめぐる話だった。佐々木敦さんのいう「そのとき性」や、キップ・ハンラハンがなぜかこだわっていた「夜」という概念を使って、音楽が生み出される時間や場所について話を突き詰めていけばもっと面白くなりそうだった。ちなみにライブもすばらしかった。4時間立ちっぱなしだったけれど大満足。combopianoは今まで聴いてたのとまったく違う印象で、観る目がひっくり返った。そしてドラムの栗原務さんは初めてお見かけしたのだが……こ、これは!

批評家の身体

ところでキップ・ハンラハンが登場したときに、近くにいた人が「うわ、すげえ貫禄、魔法使いそうじゃねえ?」と思わず口にしたのが印象的だった。そういう見た目のインパクトは強烈である。その瞬間に、やっぱり我々は身体から放たれるアウラを目撃しているのだろう。佐々木敦キップ・ハンラハンもこの日はレーベル会社の社長という立場での話がメインだったのだが、佐々木さんは周知の通り批評家でもあるわけで、批評家というのは言うまでもなくさまざまな媒体(メディア)を通して語る存在である。実際佐々木さんはこのあと朝まで文化系トークラジオLifeに出演し、そのあとにはさらに同じTBSでストリームの収録もあるという強行軍で、さらにさらに各雑誌等での活躍もこれまた周知の通り。そしてこのようなイベントでも精力的に語る。まさに八面六臂、阿修羅の如き身体である。このようにさまざまな媒体を通して語る批評家という存在はめちゃくちゃ面白いと改めて思った。我々は批評家という存在を目撃することで、その身体がどのように動いているかという、ダイナミズムを感じることができるのだ。「雑誌はつまらなくなった」という物言いがもしそれなりに妥当であるとするならば、それは書き手のこうした動く身体が見えづらくなっているからではないだろうか。

知的財産の継承

あと、CDがなくなってしまうかも、という話で思いだしたのは『Invitation』で坂本龍一が本に対してフェティッシュな感情があると言っていた話。小さい頃に父親の蔵書を見て、なんとなくいろんな名前を覚えた、というエピソードだが、それで思ったのは、はたして私はそのような何物かをいずれ生まれるかもしれない我が子に残せるのかどうかということ。たぶん、無理だろう。仕事柄、本は買うけども蔵書数がずば抜けて多くなるとは思えないし(たぶん私は不要なものは売ってしまうだろうし)、そもそも本もCDと同じくデータ化されてi-podみたいなものの中にすっぽり収まってしまうかもしれない。そうなったときに、「オヤジのi-podの中にあったデータを見て育ちました」なんていう子が育つことはありえない。坂本龍一がそうであったような、偶然それを目撃するというような形での知的財産の継承は、もはや考えられないのである。ではどうなるんだろう? もしかしたら、文化系トークラジオLifeみたいにオトナたちがわいわいやって、それを子供がなんとなく聴く、というふうに耳で残っていくものはあるかもしれない。