元ネタが解らないパロディ

今日は雑誌、本、映画など、かなりの量の情報収集ができた。これくらいできれば大満足だ。たとえば『QJ』の最新号(70号)でプロレスの「マッスル」について書かれた特集が面白い。トップを飾る九龍ジョー氏の記事は、メディアとして「使い勝手がよくなってきた」プロレスが、他のさまざまなジャンルを取り込むことでエンタテインメントとして大化けしていく可能性を(そこに潜在する「批評」性もほのめかしながら)生き生きと描いている。必見だ。(マッスル坂井氏は77年生まれであることもこの記事で知った。)
また、なぜか菊地成孔の観戦記もある。『キン肉マン』を知らなかったため、リング上で展開されたバッファローマンのパロディの元ネタがわからなかったのだが、しかし彼には「まるでグランギニョルの様な不条理な効果」があったという。このパロディはヲタク限定の記号ではない、という彼は、以下のように書いている。

(略)優れたパロディは、元ネタ知らずでも何か啓示的/原型的な、恐怖感にも似たゾクゾクする面白さを生む訳で(というか、本質的に「世界」とは「元ネタが解らないパロディ」によって構成されている訳です)

プロレスをめぐる以上2つの記事に注目した理由のひとつは、混淆したものが流れ込むことで成長していく、メディアとしての面白さが描かれていることである。さまざまなコンテンツを、いかにしてメディアというものがパッケージ=編集できるか。九龍ジョー氏の檄文は、こうしたキメラ的メディアへの渇望感と期待に満ち溢れていて小気味よい。

いっぽう、菊地成孔の記事は、もはや教養というバックグラウンドが解体し、文化的記憶を共有するとか、共同幻想を持つ、ということが困難になった今の時代に、では記憶は継承されずに断絶していくのか、という大きな問題を孕んでいる。……大げさだろうか。ともかく菊地さんのいう「元ネタが解らないパロディ」が読者や観客に受け入れられていく可能性があるとしたら、これはたいへんエライことになる。元ネタが解らない、ということはつまり、そこにノスタルジーが入り込む余地はない。そのとき、パロディ(引用の一形態)によって過去の記憶は、ノスタルジーとは別種のアウラをまといながら、新しい創作物の中へ流れ込んでゆく。