ロマン主義的批評(仮)宣言1


仲俣暁生さんが最近ブログでずっと小説や批評について書いていたのは周知の通りだが、それはありていに言って笙野頼子に対する批判でもあったので、大丈夫かなあ、笙野さん喧嘩強そうだから、あんまり関わり合いになるのはよそうと思って見ていたのだが、結果的にあの一連の批判的エントリーが呼び水となって仲俣さんは笙野さんの作品を読み、考察も発展しているようなので、喧嘩スタイルも時にはアリなのかもしれない。

http://d.hatena.ne.jp/solar/20071013


非常に面白かったのは、最新のエントリーで辿り着いたひとつの帰結が、批評というものを「書く」ことではなく「読み」の一種として捉えていることである。そこからインスパイアされて、以下の文章を書いた。(ただしブログのエントリーとしては非常に長いものになってしまったので、数回に分けて少しずつ更新していくことにします。今回は“さわり”だけ)

4つの読み

上のエントリーで、仲俣さんは小説の読者を4つの理念型に分けた。
1.分析的に読む読者(小説家)
2.批評的に読む読者(批評家)
3.親和的に読む読者(ファン、信者)
4.消費的に読む読者(消費者)


「分析」とは物語の構造やキャラクターに対する研究のことを指し、「親和」はとにかくありのままに、時には過剰に、ほとんど作者に同化するような幸福感を得ながら読む受容の仕方のことであり、「消費」というのは、たとえば“泣ける”とか“萌える”といったカタルシスをそこから得ようとする読み方のことだと思われる。


では残された「批評」とは何かというと、ある“枠組み”を提示することであると仲俣さんは書く。枠組みといっても、もし批評が作品を切り取って単なる卑小な枠組みを提示するものでしかないならば、つまるところそれは決して元の作品を超えることのないただのミニマムな要約に過ぎないし、小説の醍醐味であるところのディテイルを削ぎ落としてしまった、まったくつまらない無味乾燥なものであると批判されてもいたしかたがない。しかし、この“枠組み”の提示の際に発生しうる“誤読”、実はそれこそが批評の醍醐味なのだというのが、仲俣さんの主張の肝であると思われる。


誤読とはつまり、受け取ったものをズラして、別の形に転化させるという芸当のことだろう。これがうまくいけば、枠組みを提示するという行為は、単に作品を“分かりやすく”読者に伝えるものではなしに、「小説+媒体+場所+読者」といったものによって構成されている世界の配置図をズラし、ありえないような小説と読者の出会いをもたらしたり、小説や批評が掲載される媒体や流通する場所を活性化させるというハナレワザさえもできてしまうのだ。


では批評というのはまったくもって自由で素晴らしいアナーキーな楽園かというとそんなことはなく、むしろ形式ばった不自由な行為になりさがってしまっている。それはなぜか、というのが次回の話。(つづく)