傘の下の君に告ぐ


5月に入ってからどうも生活のペースがつかめない。もう6月なのに。周囲の状況としては、いいこともあれば悪いこともある。今はどうも、悪いことに弱い。うーん、みんな、やさしくしてください。こんなときこそ、と友人の龍之介僧侶が世田谷でやってる「家出カフェ」にお邪魔しようかと思ったら、来週までお休みらしい。まあいいや、しょうがねえ、沈むときは沈もう。
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さて、佐々木敦さんのブログ(http://unknownmix.exblog.jp/d2007-06-05)に『QJ』に連載されていた「イズミズム」の第5回と6回が、文化系トークラジオLifeの前回のテーマ「運動」に合わせてアップされている。第5回はオタクの話、そして第6回が運動の話。「今や誰もが、自分の言葉が通じる相手にだけ話しかけているように、僕には思える」という佐々木さんの言葉に同意するとともに、ぼく自身もまた、言葉の通じる相手にしか話しかけてないよなと思ったりもする。


この「閉じられている」感じについて考えていたら、ちょうどi-podのシャッフル選曲でMr.Childrenの「傘の下の君に告ぐ」が流れた。97年のアルバム「BOLERO」に収録された曲で、広末涼子が当時のラジオ番組「広末涼子のがんばらナイト!」で「この曲がかっこよくて好き」と紹介したのを覚えている。(それを聴いたぼくが桜井和寿にはげしく嫉妬したことは言うまでもない)

BOLERO

BOLERO


それはともかく、ミスター・チルドレンは96年の「深海」と97年の「BOLERO」がもっとも印象に残る。「アフター95」のニヒリズムとでもいうか、そういう暗さに当時のぼくはかぎりないシンパシーを感じたし、今聴いても(じゃっかんの気恥ずかしさとともに)心に痛みを感じる。今思うとそれは、それこそ「深海」に潜るようにして、自分というものを閉ざしていくプロセスであったのかもしれない。他者に対して語りかけることの困難。たぶんそれに直面したミスター・チルドレンは、このあと1年半ほど活動を休止し、「光の射す方へ」からだんだん「愛」のある方向へと生まれ変わっていくのだが、それ以降、ぼくは一枚もミスター・チルドレンのCDを買わなかったし、ほとんど聴いてもいない。今思うとそれは、復活を遂げて「愛」を語る彼らのことを、どこかで信用できなかったからかもしれない。(でも単純に聴いてないだけなので、今聴いたらけっこうよかったりするかも、とは思ってます。)


そんなわけで、ミスター・チルドレンはものすごく90年代的という印象がある。そこから彼らはそれこそ「光の射す方へ」転回していったわけだけども、ぼくとしては、ゼロ年代にこそニヒリスティックに洗練された彼らを見たかったなという気持ちがある。


(以下、気力と時間が確保できたらつづくかも)