『夢を与える』

なんということだ。「最高の夜」を過ごしてしまったその反動のせいなのか、夜のとばりが降りてからというもの完全に思考がダウナーに入っている。世界の誰からも見捨てられているのではないかという、ありがちといえばありがちな、例の不安である。それで眠れなくて朝の5時にもなってパソコンを起動させているわけだが、うれしいメールが届いていたりして、少し、救われた。


しっかりしなくては。明日には回復しよう。いろいろなことを動かそう。滞っている流れは、そのつっかえを、どういう形でもいいから取り除こう。(できるだけ早起きしような!)


こうして気持ちが沈んでしまったのは、綿矢りさの『夢を与える』をついに読んでしまったせいもあるのかもしれない。
率直にいって、とてもヘタな作品になってしまった。だがもしかしたら故意に狙ってヘタにしているのではないか、と邪推させてしまうものが今や「綿矢りさ」にはあるわけで、それは彼女がそうしたくてしているわけではなくて出版社の戦略なのかもしれないし、そういう意図もなく、誰が悪いわけでもなく、状況がいつのまにかそうなってしまった、いわば時代のせいなのかもしれないが、つまるところ『夢を与える』について語ろうとすると否応なく「綿矢りさ」について論じざるをえなくなってしまうような空気が今の文壇というか書評界にあるのはたしかで、おそらく私もその空気から逃れられないのだ。そして『論座』最新号の篠山紀信との対談のどこか腑に落ちない無邪気さなどを見せつけられてしまうと、綿矢りさ、あなたはいったいどこへゆくのだ、どこまでがあなたの本心でどこからが虚構で、というかあなたはいったい何者なのだ、と問いたくなってしまう。本物の綿矢りさはもしかすると芥川賞をとった時点で消えてしまっていて、あとはゴーストライターが「綿矢りさ」という名前を文字通り幽霊のようにちらつかせながら書いているかもしれない。それとも、芥川賞受賞による過剰なブームによって人々の悪意に晒されたことに対する復讐として、「綿矢りさ」は今このタイミングで現れたのかもしれない。あの対談のように「綿矢りさ」が無邪気に振る舞えば振る舞うほど、その背後に隠された暗いものがゆっくりとひろがってゆくのだ。そしてきっと、書店で平積みになっている『夢を与える』はそれなりに売れているのだろう、大体オレも買ってしまったしな、とかそういうことを考えると、いっさいがっさいがグロテスクで、そしてそのグロテスクさというのはまさに『夢を与える』の中に描かれている破綻とどこかで通底して、私を含めた人々の「消費」せざるをえない習性を嘲笑っているかのように思える。寒い。


もしかするとこれは、小説内の世界とその小説をとりまく世界とがシンクロすることで、私たちが立っているこの現実の基盤をぐらりと揺さぶる、とてつもなく鋭い批評性を孕んだ「作品」なのかもしれない。いずれにしても「綿矢りさ」をめぐる掛け金は跳ね上がりすぎてしまった。こうなれば、もはや最後(破滅)までレートを上げつづけるしか、括弧付きの「綿矢りさ」に道は残されていない。それはなんとおそろしく、なんと滑稽な世の中だろう。


夢を与える

夢を与える