最近思うこと

人間は孤独だ、という実存的なテーマは、もう使い回されすぎて今どき真っ正面から語ることはとてもむずかしいことになってしまった。でもやっぱり、これだけコミュニケーションツールがさまざまな形で発達した現代において、人間の孤独の質は、そうした牧歌的な実存の問題を超えて、よりグロテスクに、より悲惨な形へと変貌しつつあるような気がする。


人間にはもはやほとんど、美しい死に方は用意されていないのではないかと思う。人間はものすごい孤独の中で死んでいく。どんなに美しい物語を用意しようとしてもやっぱり惨めな死だけが残る。

社会的ななんとやら


土曜日に下北沢で打合せをやって、そのままK君と飲みに行ったら、そこにかつてミニコミを一緒にやっていた女の子がふらりと現れた。何度か一番街のあたりですれ違うことはあったのだが、まともに話すのはおそらく2年ぶりくらい。K君も巻き込んでけっこう遅くまで飲んだ。


この2年くらいのあいだに、いろいろなことが変わった。彼女はよくもわるくもあきらかに成長していたが、いまも「ふらふらしている」という。いっぽう、ぼくはといえば、ほとんど中身は成長していなくて、変わったのは外側にくっついた社会的ななんとやらというくらいのものだ。それだってそんなに大したものではないのだが、それがあるからこそ、いま、いろんな仕事に携わることができる。いま売りの『Invitation』で箭内道彦が「実現力」ってことを言っていて、「仕事は、環境づくりがほとんどすべて」かもしれないと言っているのだが、たしかにそれはその通りだと痛感する。


けれどもいっぽうで、ぼくはぼくのまわりにくっついている社会的ななんとやらを今もって信用しきれないでいる。なにごとかを実現するために必要な人間関係が、時には強烈な締め付けになったり、場合によっては敵意を剥き出しにしてきたりもする。人間の「善意」と「悪意」とはほとんど紙一重で、「善意」によって支えられた人間関係はいつなんどき「悪意」にひるがえるかもしれないという怖さがあると思う。思う、というより、これはほとんど経験的に言ってそうだ。


だからぼくは、特にこの1年くらいは、仕事は仕事として割り切りたいというか、「善意」や「悪意」に左右されないようなプラグマティックな人間関係が理想だと思ってきたところがある。ただそこでは、ナントカ社の誰それさんという名刺に表されるような、それこそ社会的ななんとやらによって記号的に表現される身体が、お互いに剥き出しになって傷つけ合わないような防護膜として機能してくれて助かったりもするのであって、言うなればそれは、より社会的ななんとやらへの依存度を強めることで、社会的ななんとやらに不可避のものとしてついてくる人間関係がもたらす暴力から身を守ろうとした、ということにもなるだろう。


けれども、実際にはそんな単純にはいかなくて、やっぱり人が人に惹かれたりする部分には感情も抜きにできないというか、もっと複雑な要素が絡み合っていて、ようするに、他人との関係を営んでいくなかでは、さまざまな矛盾といったものを、ある程度前進していく日々の中に呑み込んでいくことしかできないのだと思う。そうして、あらゆるよしなしごとに屈することなく、やるべきことをやって明日という日を一日一日迎えていくしかない。


ところが、社会的ななんとやらが肥大してくると、あるいは大したことないのにそれがさも重大事であるかのように思えてくると、社会的ななんとやらのために社会的ななんとやらを駆使するようになるというか、仕事のために仕事するようになるというか、そういう自己目的化された自己言及的スパイラルに呑み込まれていくことになる。本質的、根源的なものなどはそこにはなんにもない。それでも、現代社会は実にくそけったいなことになっていて、「仕事があるだけマシ」という意識がやっぱりあるし、そもそも忙しいから、あんまりそんなことを考えている余裕もない。そういうスパイラルに呑み込まれていることにある種の自虐的な快感を得ることさえもある。でも、やっぱりそのスパイラルはちょっと危険だと思うことがこのところよくあるし、その対処法を練っておかないとこれはほんとにヤバいだろうという気がしてきたので、なんでこんなナイーヴなことを書いているかというと、やっぱりそういうスパイラルに陥ったときに、ちょっと目先をずらせるような技を自分の中で確保しておきたかったのである。


脱出


いたずらに抽象的に書いてしまった。もう少しちゃんと書くと、最近自分の身近な人がなくなったということもある。ほとんど天寿を全うしたと言ってもいいだろうけど、その死に方はけっして美しいものではなかった。ほんとにものすごく孤独だったと思うし、その孤独に対して実のところぼくは責任があるとも思っている。ほとんどその孤独の中に見殺しにしたようなものであって、法的にはなんら問われるところはないが倫理的にというか、道義的にというか、それさえもしっくりこないが、その相手にとってほんとにごくごくかすかな望みであったはずのぼくが、その気持ちに対してちゃんと応えることができたのだろうかと思うととてもではないがそうは思えない。


ただ、その人の場合は高齢だったので、まだこちらとしても納得しようとすることはできる。気持ちをオフにしておけば傷つかないでもすむ。でも、最近、若い人の訃報にたてつづけに接していて、やるせない。それらの人は、ぼくの直接の友人ではないから、それに対してぼくが何かを言うのは節度に反することだろうと思って口を差し挟むのは控えてきた。ぼくよりもはるかに衝撃を受けた人が、それぞれの形で悼んでいるであろう死についてそれを踏み荒らすような真似は無粋だろうと思った。けれども、今度ばかりは何かひっかかってしまうというか、身近な人が死んだこととかもあるのかもしれないけど、まったくちがうそれぞれの人の孤独が、でも、どこかでほんとはそれなりに通じていて、そしてそれを見ないように心のスイッチを切り、社会的ななにものかで身を固めて日々をなんとか生き凌いでいるぼくと、どう関係あるのかないのか、それを考えずにもはや何もできないしご飯を食べる気さえもしないので、こんなことを書いてしまっている。


つい最近、人が突然死ぬというのはこういうときかなと思うことがあって、(実際にそうなってしまうときにはまた全然ちがうのかもしれないのだが、)その感覚は社会的ななんとやらでうまく身を包んでいるときにはほとんど気が付かないようなものであり、しかも過度に封印しているからこそ、ひとたびその社会的ななんとやらから身を引き剥がしたいと念じたときには突然ぱっとひらくようにしてやってくるのかもしれないという気がした。ぼくや、ぼくの友人たちは、ぴんぴん生きているし、まあいろいろあるみたいだけどそれなりに元気にはしていて、あるいは元気を装っていて、でも元気を装うことも大事だよなってお互いに暗黙のうちに思っていたりもして、そういうところで支え合っている信頼関係がある。そこはぼくも信じていたいのだけど、でもそうやって「信じる」ということが、かえって相手から「語る」声を奪っていることもありはしないかと、思うことがあったのである。


なんにしてもとにかく思ったのは、死に近づいたときに自分が危機的状況にあるというメッセージを周囲の人に発するのはとてもとても難しいことだということだった。それを、周りにいる人たちが敏感に察してあげたらなどというのは、どだい、無理なことだろう。でも何かできるんじゃないかという気はする。だからこうして書きはじめてみたのだが、けっきょく何もできないかもしれない。やっぱりぼくはただこうして人の大事な部分を踏み荒らしているだけかもしれない。そう言われてもある程度しかたのないことである。


こういうときは、この言葉を避けるものだけど、あえて言ってしまうなら、自殺という行為は、やっぱり社会的ななにものかから逃れたいという動機があるのだとぼくは思う。ただそのときに、「逃れる」「逃げる」といったネガティヴなイメージではなく、そこから「脱出する」ような、どちらかというとポジティヴな読み取りが可能になれば、もしかしたら死という選択肢とは別の形での脱出法が見えるのではないかと、ぼくは思う。宗教的な形でではなく(まあ宗教そのものを否定するものではないけれど)、日常を生きるということをしながらも、そこから脱出できるような道筋がもっとあってもいいのではないかと思う。


それで思い当たるのは、最近読んだcharlieの『ウェブ社会の思想』で、こういう文脈で紹介するのは気が引けるのだが、ほんとにすごく良い本だと思った。ひとことで言えば、ウェブ社会がどういうことになっていて、その中で「私が」というより「私を」どうやって生きていけばよいのかについて考えた本である。なにか解決策がそこで提示されているというよりも読者が読みながら併走して考えていくような本だった。とにかくそこでcharlieが挑んだのは、いくつかのリミッターを解除して「語る」ことだ。すごく大雑把な言い方になってしまうけど、ぼく個人のいまの感覚でいうと、「語れない孤独」というものがあると感じる。そしてcharlieの本はその閉塞的な状況において「語る」ために、なにがしかの勇気をくれた気がする。


ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)



「場」としての運動


それとこの流れでもうひとつ書いておきたいのは、昨今の労働とか格差にまつわるいろんな論調を見るにつけ、「社会」の問題に還元するものと「その人自身の能力や資質や姿勢」の問題に還元することが多くて、そのどっちかに原因を求めることが多いように思うけど、なんかもっとその中間的なものがあってもいいんじゃないかということだ。ぼくがミニコミ的なものに惹かれるのも、それが「場」として機能したときに、社会の通念や規範とかでもなく、その人だけでどうにかするようなものでもなく、人と人とのありようがその「場」において面白いということがあるのだと思う。ミニコミでなくって店でもなんでもいい。そういう「場」は、べつに人の命を救うためにつくられるわけではないだろうけど、でもそういう「場」がいろんな形で存在して、いろんな形での面白さを見せてくれれば、それなりに命のセーフティネットとして機能するのではないかとは思っている。そういう意味で、ぼくは「誰もが自己編集できます!」みたいなウェブ社会の売り文句もあんまり好きではなくて、それは結局のところ自己責任論とパラレルだよなあという気がする。たしかに特権的な中間媒体(業界とか)をウェブが壊していくだろうということはぼくもポジティブに捉えているけど、そんなにみんな個々にバラバラにならなくてもいいんじゃないかという気はします。


最近文化系トークラジオLifeでテーマになった「運動」ということについていうなら、それが世の中に対して実行力を持つということや、それ自体が自己表現になっているということもあるけど、運動というものが「場」として機能することも大事なんじゃないかと思う。それは単に「居場所」になるということではなく(運動が居場所になるというのはある意味とてもヤバいことだ)、人が人に働きかけていくという「運動」の課程において、そこでそれこそ「他者」と否応なく出会ってしまう人が、自分自身という、ある程度社会的ななにものかを身につけながら自己物語とともに構築されてきたものが揺らいでしまうという、そのインパクトこそが大事なのではないかと思う。そういうインパクトがなかったら「運動」はほとんど実効性をもたないだろう。「場」というのは、そういう意味で、安寧な居場所であるとはかぎらない。たとえばぼくは、下北沢的なもののすべてが好きなわけではないし、下北沢の一部におけるノリにはついていけないところだってある。ただ、そういう自分には馴染まないものも含めてさまざまなものが下北沢にはまだ今のところあって、そういう場所が(あるいは「場」が)、東京という大きな都市の中の新宿や渋谷ストライクからちょっとはずれたところにあるというのは、すごく面白いと思っている。そして、その下北沢が「シモキタ」として、東京であるとか、日本であるとか、あるいはもっと広範な世界に向けてなんらかの働きかけをしていくことで、そこに何かを揺らしてくれるようなものが生じるとするなら、それは面白いことだし、その「運動」がもしかしたらぼくたちにいろんな生き方の幅を示してくれたりするかもしれないとも思う。






やっぱり死については安易に語りたくないと思う。だからこのとりとめのない文章もすごく不快に感じられた人がいるかもしれない。そもそもの大前提として、ぼく自身が友人たちと何も交わさなくなりつつあるのではないかという思いがあり、いっぽうでそんなことはないさという思いもあり、ただとにかく、ごく普通に人が抱えているであろう孤独というものが、あたりまえのものであるはずの孤独が、しかし、ほんとに些細なことで一歩間違うと死につながるということが、ほんとにあるのだという気がして、こんなことを書いてしまったのでした。最近は社会批判とか生きるとかってこともわりとネタっぽく語られることが多くて、それはそれでいろんな人にメッセージを届けるための技なのかもしれないけど、どうもそこをネタにするのは違うかなという気がしてこんなことを書きました。