絶望という名のパスタ
デスペラート、すなわち絶望という名のパスタを食べた。注文するときに、デスペラートお願いします、と頼んだのだが、料理を運んできたウェイトレスは、「絶望のパスタ、お待たせしました」とたしかに言ったのだ。
あとで調べてみたら、にんにく、唐辛子、オリーブオイルといった必要最小限のもので作られているから、貧しさの象徴、したがって絶望、と呼ばれたとの説が有力だが、どうやらこのパスタは別名、アーリオ・オーリオともいうらしい。(ただし、アーリオ・オーリオとデスペラートは別物という説もある。)
アーリオ・オーリオ? どこかで聴いたことがあると思ったら、絲山秋子にそのタイトルの小説があった。『袋小路の男』に収録された作品で、38歳の男と、その姪の、14歳の女の子が文通する話である。これが今、読み返したらちょっと切ない。そういえば『袋小路の男』の中でいちばん好きな作品だった。
その語感からか、アーリオ・オーリオはこの小説で「光」を指している。もとは同じはずなのに、デスペラートとアーリオ・オーリオで、まったく違うイメージを連想するのは不思議だ。
フィラデルフィア美術館展
上野の東京都美術館で「フィラデルフィア美術館展〜印象派と20世紀の美術〜」を観る。最終日とあって大混雑。とはいえ、観たことのなかった画家の作品も観られて良かった。もっとも印象的だったのはアンリ・ルソーか。やはり、パウル・クレーやクロード・モネの絵は人気が高かったような気がする。
新古典派、自然主義、キュビズム……というように、「〜主義」「〜派」といった名前がつくのはけっこう好きだ。もちろん、個々の作家がそうしたものに回収しきれない個性を持つのはたしかだけど、「〜主義」「〜派」といった名称は作家同士の交流や影響があったことを示す証拠でもあって、そうしたシーンが生まれることで芸術が発展してきたのだとすれば、はたして、今我々の生きているこの時代の芸術は、後世においてどんなふうに名指されるのか。それとももう、そういうシーンは生まれないのか? 芸術は時代と無関係ではないはず。大体においては。
太陽の塔
友人とサッカーバーで天皇杯を観て、そのあと家でM-1グランプリ、そして同居人たちとチーズフォンデュを食べて、最終的にLiveSportsでミラノダービーを観た。観てばっかりで、読んでない。脳がふやけた感じがする。
M-1グランプリ、面白かったけど心の底からは笑えなかった。この番組の演出が、漫才より、その裏側の物語にフォーカスしている気がしてならないし、漫才自体も、今年は圧倒的に毒気が足りない気がする。もっと、何かが壊れるようなところが見たい。その意味では、いちばん面白かったのは漫才ではなく、第一ラウンドで落ちた笑い飯が、「笑い飯を見たいゆうて茶の間が怒ってるぞ!」とカメラに向かってキレた場面で、あの瞬間には心を打たれた。
明日はクリスマスイヴだ、と思い、なんとなく森見登美彦の『太陽の塔』をめくってみる。どのページを開いてもやはり面白い、のだが、四条河原町の「ええじゃないか騒動」の後の場面は少し切なくて、ああ、こういう小説だったか、とあらためて思い知る。
革命が起きた夜
某書籍の編集スタッフを招いて鍋会、のはずが、いろんな人を呼んでしまって趣旨がよく分からなくなり、おまけに女性ばかりになってしまって罪悪感さえおぼえた。これではまるで、美少女好きのコニーのために会を開いたようなものである。(というのは方便でもちろん私自身が嬉しいのである。)ぜんぶで11人が参加。お開きになったのは、なんと朝の9時。
途中、トランプをやろう、という話になって大貧民で戯れる。明け方からは「JJルール」を採用。J(11)が2枚あれば革命を起こせて、しかもジョーカー2枚入りというトンデモなルールだが、これがなかなかスリリングで盛り上がった。安定した秩序というものが存在せず、既存の価値を何も信じられなくなる。その不安定な世界で大富豪の座をキープするのはきわめて難しいのだが、最後は強敵naoxiをなんとか都落ちに追い込み、暫定王者の座を獲得した。
女は悪魔である
下北沢でインタビューに使えるいい場所知らないか、と訊かれて紹介した縁で、某小悪魔系女優のインタビューに立ち会う。終了後、その編集者を拉致してN社の人たち+遠方の美少女で深夜遅くまで飲む。
N社はビジネスモデルが明確で、若くて野心があって、おまけに社長が(いい意味で)いい加減なのが魅力的だ。